なれのはてとまいまいつぶろ

参加している交流会「awaka」では毎回30秒間のスピーチがあります。

当日お題が出て速攻でまとめて伝えます。

今月は「最近読んだ本又は映画について」です。

私は、第170回直木賞ノミネート、

加藤シゲアキ著「なれのはて」と村木嵐著「まいまいつぶろ」の2冊を紹介しました。

なれのはてとまいまいつぶろ《平賀ファイナンシャルサービシズ(株)》

2つの作品には共通点、符合するところがあります。

どちらも直木賞受賞には至らなかった、

タイトルがひらがな、どちらの作品も障害を持つ人を軸に描かれています。

 加藤シゲアキ著「なれのはて」

「なれのはて」は、タイトルに惹かれました。

なれのはてなんて、いい意味ではないし、

暗く悲惨な感じがする、本のタイトルにするかなぁ。。。

現代と、1920年~1960年代が交差し、

粘着感のある熱量や業が潜む物語の底流に引き込まれる想いで一気読みでした。

「死んだら、何かの熱になれる。すべての生き物のなれのはてだ」

でも最後は「なれのはて」ではなく、

後光が差してくるような見事なエピローグ、胸をなで下ろす思いで、

こみあげて来るものを抑えられませんでした。

加藤シゲアキ氏は凄い書き手だなぁ。

ストーリーもですが、構成の骨格も、挿話もしっかりとしたもので、

もはやタレントの片手間の小説ではない。

「なれのはて」は、直木賞よりはむしろ芥川賞の方が相応しいと想われました。

 村木嵐著「まいまいつぶろ」

歩いた後には尿を引きずった跡が残るため、まいまいつぶろ(カタツムリ)と陰口され、

言語も不自由な徳川9代将軍家重を巡る物語です。

この小説を読み始めた時、記憶にさえない遠い昔の一瞬の光景が掘り起こされました。

蕎麦屋だったか、居酒屋だったか、仕事を終えた風体のおじいさんが

店の女将さん相手に手酌で日本酒を飲んでいます。

おじいさんは楽しそうに話しかけるのですが、言葉は・・・、

まるでアヒルか鴨の鳴き声のようにしか聞こえません。

家重の言語障害はこれだ、と思い当たりました。

家重は重度の障害を持っていたがために、廃嫡され将軍にはなれないと思われていました。

が、家重の言葉を解し、通訳の役目の側用人大岡忠光や、8代将軍吉宗、息子の10代将軍家治、

といった賢者に支えられ、決して暗愚ではなく、見事に9代将軍を務めました。

「まいまいつぶろ」の村木嵐氏は、司馬遼太郎家に仕えて、とありました。

全編じんわりと温かさに満ち、潤む思いで引き込まれました。

登場人物も吉宗にお庭番、才気煥発の弟宗武、大岡越前忠相や田沼意次と、

こちらは直木賞に相応しい時代小説になっています。

遠い記憶のおじいさんと女将さん。

おじいさんは時々大きな声で怒ったマネをしたりしながらも本当に楽しそうでした。

私にはおじいさんの言葉がさっぱり分かりませんが、女将さんはニコニコと頷いて返事をしています。

大岡忠光は、家重に「もう一度生まれても、私はこの身体でよい。そなたに会えるのならば。」

と言わしめた人。

おじいさんと女将さんも、こんな雰囲気でした。

30秒で伝えるは難しいものの、折角の名著、

もう少し話せたはず、と後悔が残りましたので、夏休みの読書感想文でした。