読書感想文です
皆様の中には既に読まれた方も多いかと思います。
何しろ総発行部数2500万部という、とんでもないベストセラー、
司馬遼太郎著『竜馬がゆく』は文庫本で全8巻の長編小説です。
「産経新聞」夕刊に連載されたのが1962年から1966年迄ですので、
50年以上も前に書かれたものです。
読後感の一番は、こんなに面白い本を今まで見逃して来たことの悔いと、
同時に2500万部という部数に、読み継がれている感慨はひとしおです。
江戸幕府は倒れた
“乞食でも90まで生きるし、十人の侍医に脈を取ってもらっている王侯でも儚くなる時は来る。
人間、生死などは考えるべきではない。
寿命は天にあり人間はそれを預けっぱなしにして、仕事に熱中していくだけでいい。”
「竜馬がゆく」は竜馬の活躍を追いつつ、その時代を生きた多くの志士や人々が登場します。
著者の司馬氏は、維新の立役者ばかりではなく維新に至る中で命を散らした
多くの有意の人を慈愛の眼で描いていることに感銘を受けました。
“いま、国を憂えて、生命を捨てて奔走しているものの9割までは、
代々暖衣飽食してきた権門貴族の子ではない。
武士とはいっても足軽同然の身分の者か、それとも町人百姓の出のものである。”
竜馬は、天保6年11月15日(1836年1月3日)土佐藩生まれとあります。
竜馬の生まれた土佐藩は同じ家臣でも上士と郷士(下士)が区別され、
郷士の竜馬は藩主はもちろん上士とまみえることも許されず、
郷士は抑圧され軽蔑され、切り捨て御免で殺されても仕方ありませんでした。
*郷士は関ヶ原以前の長宗我部氏の家臣、上士は新たに城主となった山之内一豊が掛川から率いて来た家来。
竜馬たち郷士は上士を掛川衆と呼んでいた。
260年続いた徳川幕府は、末期には300弱の諸藩も、直参旗本も幕府の意のままにはならず、
身分階級制も、米を中心とした封建制度経済もとうに行き詰まり体制の維持は困難となっていたのです。
現に長州征伐のときは、竜馬との海戦で圧倒的に優位であるにもかかわらず、
幕府軍の将は遁走し、慶喜をして「旗本はあてにならない」と言わしめました。
長州側にしても、“ 「長州が勝っちょるのじゃない。町人と百姓が侍に勝っちょるんじゃ。」
そのことに竜馬は身震いするほどの感動をおぼえた。
たったいま、龍馬の目の前で、平民がながいあいだ支配階級であった武士を追い散らしているのである。 ”
*高杉晋作は武士ではない町人百姓を中心とした騎兵隊を作った。
ペリー来航は徳川幕府崩壊の引き金に過ぎず、崩壊の芽は内側にあった。
そこを列強諸国が突いてきたことで危機意識は高まり、尊王攘夷運動となるのですが。。。
幕末は尊皇派と佐幕派に分断され、殺戮が繰り返されましたが、
討幕派も、天皇を中心とした新しい政府の樹立を目指すものの、
具体的な国家像を持っていたのは竜馬くらいではなかったのかと思われます。
“アメリカでは大統領が下女の暮らしを心配し、
下女の暮らしを楽にさせねば大統領は次の選挙で落とされる。”
このフレーズは何度も出てきます。
竜馬は、この一点を持っても徳川幕府を倒さねばならないと決意します。
竜馬は、土佐にいる頃河田小龍に学び早くから議会制民主主義を知り、
日本も士農工商の「四民平等」の国となることを願ったのです。
*河田小龍は土佐の漁師だったジョン万次郎を帰国後取り調べ「 漂巽紀畧」を著した。
士魂商才
竜馬は、経済の重要性も知っていました。
“「お前は商売をやれ。これからの商売は、国事じゃ。町人づれには出来ん。
武士の眼をもって、天下の行く末を洞察した商売でないと、商売にならん。そんな時代がくる」”
同じ土佐藩の岩崎弥太郎(三菱の創始者)にかけた言葉です。
弥太郎とは長崎時代何かと衝突し、お互い気が合うとは言えないようでしたが、弥太郎は、
“癪だが俺より人間が上だ。・・・将来、竜馬を慕って万人が竜馬を押し立てるときが来るだろう。
竜馬はきっと大仕事をやる。”
互いを認め合う仲でした。
多くの人が龍馬に魅了されました。
勝海舟と松平春嶽は、土佐藩主の山内容堂に
竜馬の脱藩許しを請い、
春嶽は全くの浪人竜馬のために5千両もの大金を
出資しているのです。
お田鶴さま、千葉佐那子、お龍、寺田屋お登勢、
長崎の芸妓お元さん、沢山の女性にも愛されました。
桂小五郎や西郷隆盛にも影響をあたえ、
やがて土佐藩は脱藩罪人の竜馬を上座に迎え
聴講するのです。
人間といういきものに心優しい
“「薩長連合、大政奉還、あれァ、全部竜馬1人がやったことさ」と、勝海舟はいった。”
薩長連合は、中岡慎太郎や小松帯刀も奔走しましたが、要としてまとまらなかった。
“竜馬は西郷に「長州がかわいそうではないか」・・・これで薩長連合は成立した。 ”
大政奉還の思想は、幕臣の勝海舟や大久保一翁らから聞かされていましたが、
後藤象二郎を動かし、山内容堂から徳川慶喜を説得させたのも竜馬が仕掛けたものでした。
*事は十中八九まで自ら行い、残り一、二を他に譲りて功をなさむべし。
新政府の基本方針、五箇条の御誓文は 龍馬が考案した「船中八策」が原案といわれます。
竜馬はよく泣きます。そして、三味線を弾き、即興の端唄もうたいます。
“何をくよくよ川端柳 水の流れを見て暮らす”
これは、寺田屋事件で亡くなった薩摩藩士への弔詞、竜馬作です。
最後の将軍徳川慶喜が大政奉還を決意したとき、竜馬は慟哭し
「この公(慶喜)のために一命を捨てん」
討幕に命を燃やした竜馬だからこそ、慶喜の心中が察せられ、
慶喜の決断に謝意と万感の思いがよぎったのでしょう。
これが竜馬です。
弥太郎は竜馬は人間といういきものに心優しい。
ここが俺と違うところだと言っています。
竜馬は、多くのことを成し、明治維新に最も多く貢献した人物の一人です。
それも、脱藩後わずか5年の間にです。
竜馬がいなければ、
明治維新は違った形になっていたかもしれないと思いました。
司馬竜馬の小説で魅かれるのは、竜馬が何をしたかよりも、
竜馬が持つ時代を超えた、価値観や世界観、竜馬の人間味、優しさです。
竜馬に、英雄や偉人の呼称は相応しくはないように思われます。
では、坂本竜馬とは、何んなのか。
著者のあとがきの中に、「坂本竜馬は維新の奇蹟」とあります。
キラ星のごとき多くの有意の士を輩出した幕末から維新そのものが奇蹟です。
竜馬は、新時代の幕開けのために遣わされた奇蹟の人だったのでしょう。
また、竜馬に会いたくなりました。